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この物語はほとんどフィクションです

出かける10分前、最後にもう一度鏡の前に立つ。服は上から下まで新しく、玄関で僕を待っているスニーカーのソールはまぶしいくらいに白い。ヘアスタイルもなかなかきまっている。シャワーも浴びて歯磨きも3回した。デートコースはもちろん予習済みだし、彼女の手を取るタイミングもシミュレーションしてある。完璧に違いない。違いないのだけれど、何か忘れているような、なんだかいまひとつ決め手に欠ける気がするのはなぜだろう。
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答えを求めてここ数週間の僕のバイブル——買ったばかりにもかかわらず学校の英単語帳よりもはるかに擦り切れたデート特集のティーン雑誌——に再び目を走らせる。
キレイめファッション?きみと同じ服を買ったさ。おしゃれなカフェ?予約したとも。
…爽やかな香水?…これだ。不完全さの正体が分かった僕は頭を抱えた。シャワーさえ浴びていればいいかと思ってすっかり意識から抜けていた。第一、自分には縁がなさ過ぎて香水なんてどこで買っていいか見当もつかなかったのだ。けれど、一度気になり始めてしまった不安はとぐろを巻いて大きくなってゆく。足りていないことが分かった途端、その足りなさこそがすべてをダメにしてしまうような気さえしてきた。

やがて僕はひとつの手段に思い至った。後ろめたさを押し殺しながらこっそり母の部屋に入る。化粧台の前に並んだ色とりどりの香水瓶。もうこれしかない。すがるような思いで順に鼻に近づけてみると、しかし授業参観の日の学校の廊下を思わせる香りばかりだ。それはそうだよなと諦めかけたそのとき、最後に手に取った香りが脳を直撃した。ほのかに甘いがフルーツのような、石鹸のような香りがする。良い香りだ……。これならいけるかもしれない。母さんごめん、と心の中で呟きながら、その香水を手首にひと吹きした。すごい、瓶で香った時よりも肌からのほうがずっと柔らかくてきれいだ。なんだか最高にイカしたジャケットをもう1枚着たような気分で、からだの奥から自身が湧いてきた。やむを得ず恐る恐る纏ったはずの香水に、気づけば僕自身がとりこになって左腕から目ならぬ鼻が離せなくなってしまった。今日のデートは成功するに違いない。美しい薄紫色をしたその香水の名前を、僕は確信と期待とともに胸に刻んだ。
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あれから何年経っただろう。いま僕の目の前に座っている君は、あの時の香りがするね、と言って少し悲しそうに小さく微笑んだ。なぜ今日この香水を選んでしまったのだろう。今の僕にとってはもう、ありきたりでありふれた香水だったのに、君のその一言で、あの日と同じ特別な香りとなって僕の鼻腔を吹き抜けてゆく。やがて何かを振り払うように飲みかけのコーヒーを喉に流し込み、僕は席を立った。いつの日か、この香りで君を思い出さなくなる日がくるといいのだけれど。